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【全文公開】スラブの水(ボーダ)はだれのものか? 佐々木敏 

栄養と料理佐々木敏え/星野イクミ栄養学

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『栄養と料理』6月号(5月9日発売)に掲載の佐々木敏氏の連載特別編を全文公開いたします〔本連載や著者に関する更新情報等はツイッター(@dataeiyosusume)でご紹介しています〕。

 

スラブの水(ボーダ)はだれのものか?

<ロシア連邦> 8月革命の思い出と平均寿命の短縮

今年の2月、ロシアは兄弟国ともいわれるウクライナに侵攻した。30年前、ソビエト連邦が崩壊し、ウクライナが独立するきっかけとなった8月革命。その直後、佐々木敏さんはモスクワを訪れていた。当時の様子を栄養データとともにふり返ります。

文・手描き地図/佐々木敏 東京大学大学院医学系研究科 社会予防疫学分野教授

え/星野イクミ

本稿に登場する国。正式国名はベラルーシはベラルーシ共和国、ポーランドはポーランド共和国。

1991年8月19日、モスクワでクーデターが起こった。未遂に終わったものの、これが契機となり、この4か月後、約70年間続いた社会主義の超大国、ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)は崩壊し、ロシア連邦をはじめ15か国に分かれた。ロシア8月革命とも呼ばれる。その日、ぼくはゴビ砂漠遊牧民の調査を終え、モンゴル(当時はモンゴル人民共和国)の首都、ウランバートルにいた。そこからあこがれのシベリア鉄道でモスクワに行き、空路、留学先のベルギーに戻ろうと計画していた。その矢先の事件だった。

馬の小便味のビール

かすかな記憶をたどってみる。国境は閉鎖され、シベリア鉄道も運行を停止した。幸い、1週間ほどで国境は開き、再び走り始めた列車に乗り込み5日目にモスクワに着いた。武装蜂起した保守派政府軍は抵抗する市民を戦車で威嚇し、犠牲者が出た。その一角に行ってみた。グラジオラスの真っ赤な花束が道に置かれていた。町の異様な空気に圧されカメラのシャッターを押せなかったのだろう。探してみてもこのときの写真は見つからない。

赤の広場は閑散としていた。デパートを探して入ってみた。過剰なほどデコラティブな内装に驚いたが、高級品の棚はおろか日用品の棚さえほとんどからっぽだった。地元のビールを飲もうと酒場を探した。中から出てきた男が「ロシアのビールは馬の小便の味がするから外国人には飲めない」といったと、いっしょにモスクワ入りした、ロシア語ができるアメリカ人の文化人類学者が耳打ちした。 「チェコスロバキアから本場ピルゼン・ビールの醸造技術を導入しようと考えたロシア政府は試作品を作り、ピルゼンの工場に品質検査を依頼した。しばらくすると『貴農場の馬の健康に問題なし』という返事が届いた」というロシア小咄がある(文献①)。癖はあったがビールの味はした。

シェレメーチエヴォ空港前の酔っ払い   

いま思えば、往きから不穏な空気が漂っていた。ブリュッセルからアムステルダムを経由してモスクワのシェレメーチエヴォ空港に飛び、そこでモンゴル航空の機体に乗り換えてウランバートルに入った。この空港にはターミナルビルが2つあり、滑走路をはさんで向かい合って建っていた。一つが西側諸国に開き、もう一つがソビエト連邦内の各自治共和国や東側の国々とつながっていた。アムステルダム便は前者、ウランバートル便は後者だった。当時、前者を第2空港、後者を第1空港と呼び、2つの空港をつなぐ通路はなく、いったんソビエト連邦に入国して空港の外周道路をぐるりとまわるしかなかった。

ターミナルビルを出ると、虚ろな目をした男たちがあちこちにぼんやりと立っていた。ウォッカかビールのびんを紙袋で包んで握りしめているらしい男もいた。「国一番の国際空港の目の前になぜこんなに酔っ払いがいるのだ?」と不思議に思ったが、それよりも怖くて、急いでタクシーを拾った。

ペレストロイカと飲酒対策   

時代を少しさかのぼる。アメリカ合衆国を中心とする西側諸国とソビエト連邦を中心とする東側諸国とで世界を二分した冷戦の時代が続き、1980年代に入ると東側世界における経済や生活レベルの立ち遅れは歴然となっていた。そこで、85年、ソビエト連邦共産党中央委員会書記長の座に就いたゴルバチョフは、国家再建の切り札として、ペレストロイカ(再構築)とグラスノスチ(情報公開)と酒の規制に着手した。酒の規制だけ異質に聞こえるかもしれないが、じつは最も具体的かつ本質的だったかもしれない。

ロシアで酒といえばウォッカだ。ウオツカ、ウォトカとも書く。蒸留酒の一種で、ロシアと東欧圏を中心に広く飲まれている。起源にはロシア説、ポーランド説、ウクライナ説があるらしい(文献②)。いずれにしてもスラブ系だ。ほとんど無味無色無臭なので日本ではカクテルのベースに使うことが多いが、ロシア人は生で飲む。ウォッカの語源はロシア語(広くはスラブ諸語)の「水(ボーダ)」にあるらしい。だから水など足さなくてもよいのかもしれない。

ソビエト連邦でも酒造所は生産量を政府に申告しなければならない。政府はそれを基に国全体のアルコール消費量を毎年公表している。規制の結果、84年から88年にかけてアルコールの消費量は6割も下がった図1文献③)。

図1 ロシアにおけるアルコール消費量の推移 その1 出典:文献③

政府による酒の規制で公式アルコール消費量は大きく下がった。

カンポットよりサモゴン

ロシアの甘味にカンポット(コンポート)とヴァレニエがある。カンポットは砂糖水に果物を入れて一度熱を加えてからびんに詰めた飲み物、ヴァレニエは果物を砂糖で煮たものでジャムに似ているが果物の形はくずさない。ウォッカの供給量が落ちると、国民はカンポットなどに使うはずだった砂糖を使って自家醸造酒を作り始めた。サモゴンと呼ばれる。

グラスノスチでもサモゴンの生産量(または消費量)は公表されない、というよりも把握できない。そこで研究者は、砂糖の消費量を中心に複数の公開資料を駆使して(このあたりがロシア研究のむずかしくておもしろいところなのだろう)、サモゴンの生産量を推定した。モスクワの推定値が図2である(文献④)。確かに84年から87年にかけて増えたが、それはわずかで公式アルコール消費量の減少を少しゆるやかにした程度だった。サモゴンは庶民のささやかな抵抗(またはお楽しみ)……に見えた。

図2 ロシアにおけるアルコール消費量の推移 その2 出典:文献④

非公式の自家醸造酒(サモゴン)の生産量が急増し、公式アルコール消費量の減少分を帳消しにし……

 

平均寿命の短縮

それでは、(グラスノスチによって)社会主義のベールはとり払われ、(酒の規制によって)国民は節度ある飲み方を覚え、(ペレストロイカによって)国家は再構築されたのだろうか? 現実は真逆だった。国の経済はますます立ちゆかなくなり、91年、ソビエト連邦は崩壊した。この間もサモゴンの推定生産量は増え続け、公式アルコール消費量の減少分を帳消しにしたばかりか、アルコール全体の消費量を押し上げるに至った(図2文献④)。

そして、歴史上類を見ない形の健康崩壊が起こった。国家の崩壊からわずか3年でロシア人男性の平均寿命は一気に6歳近く縮んだ図3文献⑤⑥)。同じ時期、日本やアメリカでは平均寿命を6歳延ばすのに30年かかっているから、10倍の速さで命が縮んだことになる。平均寿命は赤ん坊の寿命の平均値である。命が危険にさらされやすいのは子どもと高齢者で、平均寿命は乳児死亡と小児死亡の影響を特に強く受ける

図3 ロシア、アメリカ、日本における男性の平均寿命の推移 出典:文献⑤⑥

ソビエト連邦が崩壊した1991年からわずか3年間でロシア人の平均寿命は6歳近く縮んだ。

ところがロシアでこの間に特に増えたのは成人男性(40歳前後)の死亡だった(図4文献⑤)。つまり、平均寿命の急激な低下はもっぱら成人の死亡率の急増によるものだった。「歴史上類を見ない形」と書いたのはこういう意味だ。

図4 ロシアにおける男性の年齢階級別総死亡率の変化 出典:文献⑤

ロシア人男性の平均寿命が縮んだのは、中年層の死亡率の急増によるものだった。

しかもこの寿命の短縮は不公平なものだった。総死亡率の上昇は教育を充分に受けられなかった人たちに集中していた(図5文献⑦)。社会主義は貧富の差のない理想の世界を作るはずだった。けれどもそれは幻だった。社会のひずみは彼らに集まり、彼らの命と健康はあらゆる角度から危機にさらされていたのだろう。酒量が多かったのもほぼこの層だ(図5文献⑧)。1994年の調査によると1回の飲酒で日本酒にしておよそ6合も飲んでいたというから驚く。最大値ではない、平均値だ。確かにウォッカは命を縮めたかもしれない。それでも夢を見るためにウォッカが必要だったと解したい。

図5 ロシアにおける男性の総死亡率と飲酒習慣の変化を教育歴別に見た研究

注:教育年限が日本と違うためのずれがある。

総死亡率の変化 出典:文献⑦

レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)でのコホート研究。

飲酒習慣の変化 出典:文献⑧

日本酒(合)に換算、ノボシビルスクでの調査。

ロシア人成人男性の死亡率の急増は教育を充分に受けられなかった人たちに集中し、飲酒量が多かったのもこの層だった。

その後のロシア

8月革命から30年が過ぎた。幸いなことに、ロシア人男性の平均寿命は2005年から伸びに転じ、その後も現在まで順調に伸びている図3、文献⑤)。この間にモスクワの町もずいぶん変わったらしい。そこで、本場のウォッカとその後のビールの味を楽しもうと、今年、ロシア再訪を思い立った。するとその矢先(2月24日)、また、たいへんなことが起こった。残念ながらお楽しみはしばらく先になりそうだ。そんなことよりウォッカはロシアだけのものではない。ウクライナにベラルーシ、ポーランドを含む東西スラブ系の人たちの命の水(ボーダ)である。みんなのものだ。なにより、物言わぬ(物言えぬ)庶民のものだ。

・この記事は『栄養と料理』2022年6月号に掲載しています。Web記事は予告なく削除することがあります。ご了承ください。

参考文献

① 米原万里。ロシアは今日も荒れ模様。講談社文庫、2001年。

② パトリシア・ハーリヒー。大山晶(訳)。ウオッカの歴史。原書房、2019年。

③ Nemtsov A, et al. Are trends in alcohol consumption and cause-specific mortality in Russia between 1990 and 2017 the result of alcohol policy measures? J Stud Alcohol Drugs 2019; 80: 489-98.

④ Nemtsov AV. Alcohol-related harm and alcohol consumption in Moscow before, during and after a major anti-alcohol campaign. Addiction 1998; 93: 1501-10.

⑤ Shkolnikov V, et al. Changes in life expectancy in Russia in the mid-1990s. Lancet 2001; 357: 917-21.

⑥ The World Bank. Life expectancy at birth, male (years) – Russian Federation, Japan, United States. https://data.worldbank.org/indicator/SP.DYN.LE00.MA.IN?end=2019&locations=RU-JP-US&start=1960&view=chart (2022年3月15日アクセス)

⑦ Plavinski SL, et al. Social factors and increase in mortality in Russia in the 1990s: prospective cohort study. BMJ 2003; 326: 1240-2.

⑧ Malyutina S, et al. Trends in alcohol intake by education and marital status in urban population in Russia between the mid 1980s and the mid 1990s. Alcohol Alcohol 2004; 39: 64-9.

⑨ 斎藤勉。ソ連崩壊20年に思う(斎藤勉)2011年2月。日本記者クラブ、日本記者クラブ会報、取材ノート。 https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/21656 (2022年3月15日アクセス)

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