3つの思い出話から
エスカルゴからメコン川のコイへ
パセリの深緑色が鮮やかなブルギニョンバターが盛られたエスカルゴのオーブン焼きを食べたことがあります。西ヨーロッパのどこかでした。あのカタツムリの歌が頭の中で流れ、子どものころ梅雨時に紫陽花の葉っぱごととってきて飼っていたかわいらしい姿を思い出して困りました。
なぜ彼らはカタツムリを食べ、日本人は食べないのか? 食文化が生まれる背景には食環境に加えて、食品衛生の問題や栄養素確保の必要性など、生命と健康に直結する理由もあったはずです。いや、むしろこちらのほうが大きかったはずです。人は生存のために環境に適応し、文化を培ってきたはずだからです。
カタツムリを食べられなくても、栄養素の確保に問題は起きず、健康をそこなうこともありません。しかし、東南アジア・インドシナ半島を流れる大河、メコン川中流域でとれるコイ科の魚のように、それがその地で生きる人々のおもなたんぱく質源になっている場合は話が違ってきます。この地域のコイ科の魚にはタイ肝吸虫という寄生虫がいて、肝臓がん(肝内胆管がん)の原因となるからです。つまり、肝臓がんのリスクとたんぱく質不足のリスクのどちらをとるかの選択を迫られるわけです。このような場合、がんの研究とたんぱく質の研究を別々に進めていては現実的な改善策は見つかりません。それらを総合的に評価し活用する技術が求められます。
研究室のお茶から中世のビールへ
大学の研究室で学生と雑談をしていたときのことです。机の上にあった緑茶を指して、「このお茶のなにに期待する?」と尋ねてみました。学生は「カテキン」と答えました。ぼくは少しいじわるをして「水」といいました。お茶は複数の物質からできています。そして、それぞれ異なる健康効果・健康影響を持っています。問題はどの物質をたいせつだと考えるか、そしてそれはなぜか、です。どの健康効果を重視するかによって、食べ物や飲み物のなにに期待するかも変わってきます。
ところで、中世のヨーロッパで飲み物といえばビールだったそうです(出典①)。ただし、アルコール度数は低く、その価値は「酔うための物」ではなく「腐敗しない水」にありました。発酵が腐敗をおさえたからです。その後、コーヒーと紅茶がヨーロッパに持ち込まれ、水摂取源としての(うすい)ビールはその役割を終えました。
その土地、その時代の食環境と健康課題の組み合わせによって、どの食品のどの面に期待し注目すべきかが違ってきます。食品の中身だけを見ていても、人の健康状態だけを見ていてもこの目的は達成できません。栄養を取り巻く社会全体を俯瞰し、現実を客観的に観察したうえで焦点を絞っていく力が求められます。
インスタントラーメンから食塩ショックへ
ぼくはインスタントラーメン、しかも袋めんが好きです。海外旅行から戻った夜に食べるのはたいていインスタントラーメン(袋めん)です。調べてみたら、ぼくはインスタントラーメン(袋めん)とともに生まれ、ともに育った世代でした。
インスタントラーメンには(インスタントでないラーメンでも)食塩が大量に入っていることは知っています。ですから、ぼくは、粉末スープが別封されている商品を選び、粉末スープをできるだけ残し(使わずに捨てることに誇りを感じている)、ゆで汁を半分ほど捨てて新しい湯を注ぎ入れ、手元にあったなにか(塩けの少ないものならなんでもよい)を突っ込んで味をふくらませるという技をいつしか編み出しました。
このようなけなげな減塩生活のおかげで、ぼくの食塩摂取量はかなり少ないはずです。それを確かめるべく、1日分の尿をためてその中に出てきたナトリウム量を測ってみたことがあります。結果は9.6g。食塩の消化吸収率を98%、日常生活で汗に出ていく分を14%と仮定すると、食塩摂取量は1日あたり11.2gとなりました。「8g 前後、多く見積もっても9g くらい」と期待していたので、想定外の11g超えにショックを受けました。そして、さっそく言い訳を考えました。その日はたまたま高かっただけ、冬(2月)だったから(汗に出ていった量はもっと少なかったはず)……。いま本当に必要なのは、降圧作用を持つ新規成分を見つけるための研究ではなく、減塩できない人間行動に迫る栄養学のほうだと確信しました。
行動栄養学の着想へ
見えない環(リンク)
ミッシングリンク(missing link)という用語が進化論にあります。これは、「鎖の中の欠けた1つの環」といった意味で、人間の進化の過程で類人猿と人間の間に存在したと推定される未発見の生物を指す言葉だそうです。ここから、ある一連の過程が完成するために不可欠だと考えられるにもかかわらず欠けている部分(または未知の部分)があるとき、その部分を指す言葉として使われるようになりました。
そういえば、大学をながめると、医学はその教育も研究も主として医学部で行なわれ、経済学の教育と研究は両方とも経済学部を中心に行なわれています。ところが、栄養学部は国内にはきわめてまれで、栄養学の教育は家政学部や生活科学部で行なわれ、研究のほうはおもに農学部や医学部で行なわれているという不思議な状態が長く続きました。
そこで思い出したのが、「昔、1頭の象の体がばらばらにされ、いろいろな国に運ばれた結果、ある国では象とは長い筒状の生き物であると信じられ、別の国では大きなうちわ状の生き物であると信じられるようになった」という逸話です。この話の恐ろしさは、「『本当の象をだれも知らない』ことをだれも知らない」というところにあります。
わが国における栄養学はまさにこの象であり、ある人は栄養学の鼻の部分を栄養学だと信じ、別の人は栄養学の耳の部分を栄養学だと信じている。「本当の栄養学をだれも知らず、そのことをだれも知らない」ということに思い至りました。
これは栄養学全体の発展を妨げるだけでなく、断片的な栄養学によって作られた情報が世の中に流されやすい風土を生み、対立する情報やつながりのない情報が大 量に流され、「どれを信じたらよいかわからない」といった社会問題を引き起こしてしまいました。これが栄養学のミッシングリンクです。しかもこのリンクは解けなかったのではなく、見えなかったのです。これが本書の副題「食べ物と健康をつなぐ見えない環(リンク)を探る」にこめた意味です。
食行動学から行動栄養学へ
行動栄養学(behavioral nuturition)は、人の食行動を中心として栄養を俯瞰し、関連する諸科学を結びつけて、人の健康に活かそうとする学問です。
近い言葉に食行動学があります。食行動学は、文字どおり、行動学(行動科学)の一分野です。たとえば、女性の食事量(エネルギー摂取量)は食事相手の性別や人数の影響をどのように受けるかといった実験など、興味深い研究結果がたくさん知られています。しかしそれらが健康に与える影響については、科学としては、これまであまり関心が払われてきませんでした。これは不思議なことです。このような食行動が習慣的に繰り返されれば、それは健康になんらかの影響を与えると考えられるからです。これが、食行動学ではなく、行動栄養学という名前の学問分野が必要だと考えた理由です。
表紙絵の意味
表紙(カバー)の絵は、世紀のフランドル(現在のベルギー北西部を中心とする地域)の画家、ピーテル・ブリューゲルによる「謝肉祭と四旬節の喧嘩」(1559年、ウィーン美術史美術館蔵)の一部です。2冊の拙著、『佐々木敏の栄養データはこう読む!』と『佐々木敏のデータ栄養学のすすめ』でも同じ画家による絵を使いました。
ブリューゲルは当時としては珍しく、庶民の生活を温かい目でユーモラスに描く中に、時の権力者への辛辣な批判をこめた画家です。この絵でも、画面の前面(下方)で2人の権力者(謝肉祭と四旬節を象徴している)が争っているうしろで、そんなことには目もくれず、庶民が日々の暮らしを楽しんでいるさまが描かれています。その中に食べている場面はありませんが、食事の準備をしている場面が2つ含まれています。画題が示すようにこの絵の主人公は2人の権力者かもしれません。しかし本当の主人公は、小さく描かれたたくさんの庶民のほうだとぼくは考えています。ですので、表紙絵には庶民を切り出して使いました。ぜひ原画と見比べてみてください。
絵を選ぶにあたり、食べ物の絵ではなく、食べている人を描いた絵を探しました。ところが、食べ物の静物画は無数にあるのに、人々が食べているさまを描いた絵は少なく、しかもそのほとんどは空想上の宗教画か、王族や貴族の宴席を描いたものでした。そういえば、食もケよりもハレのほう、日常の食べ物よりも高価なものや珍奇なもののほうに耳目が集まります。同じように、栄養も日常の食べ物から毎日摂取しているありきたりの栄養素よりも、限られた食品に微量に含まれるカタカナ書きの物質のほうに関心が集まりがちです。
しかし、食は日々の営みであり、健康はその積み重ねの結果です。栄養の本質は庶民のつつましい日々の営みの中にある……、この絵は私たちにそのことを教えてくれているようで、本書の主題に最も近いと感じ、表紙絵に選びました。
この本の楽しみ方
本書では、「行動栄養学とはなにか?」の考察は最後(第9章)とし、行動栄養 学に関連する話題のほうを先に並べました。本書を通読していただき、それをあなたの頭の中で組み合わせていただければ、「行動栄養学とはなにか?」を理解していただけるように組んだつもりです。けれども、「行動栄養学とはなにか?」を概念的に先に理解し、そこに部品(パーツ)を組み込んでいくことで行動栄養学を理解したいと考える読者もおられるでしょう。この場合は、第9章「行動栄養学とはなにか?」を先にお読みいただき、その後、第1章に戻って読み進めてみてください。どちらの読み方でも充分に本書を楽しんでいただけると思います。さらに、それぞれの章をこの順に読んでいただく必要も理由もそれほど強いものではありません。興味の赴くまま、食指が動くままに読んでいただくのもまた一興でしょう。
本書は栄養疫学の研究を中心に構成されています。したがって、どうしても疫学と統計学の専門用語を使わざるをえませんでした。それらを読み飛ばしても、本書が意図するところは充分にご理解いただけ、本書を楽しんでいただけることは保証します。しかし、疫学や統計学の専門用語がむずかしいと感じられたら、本書の姉妹書『佐々木敏のデータ栄養学のすすめ』(女子栄養大学出版部、2018年)の巻末に添えられている「本書を深く理解するための疫学・統計学用語集(352〜362ページ)が役に立つかもしれません。どうぞご活用ください。
どうぞお好みの読み方でお楽しみください。
出典① Standage T. A History of the World in 6 Glasses Paperback. Walker Publishing Company; Annotated edition, 2006.
出典② Young ME, et al. Food for thought. What you eat depends on your sex and eating companions. Appetite 2009; 53: 268-71.